日本百名山
−登らない、使える、私家版点の記−
第二部
目次
第二部
1 私家版(登らない)点の記
2 開山史
3 登れない山
剱岳点の記ガイド
1 私家版点の記
ここからは人により異なってきて、以下は一つの例です。私は百名山の内まだ15余りしか登っていないので、大半は足を踏み入れたか、遠くあるいは近くから見たという話であり、多くはまだそれすらもおぼつかないということになりますが、徐々に充実し、穴を埋めていくことにしたいと思います。仕分けした目次を示します。リンク先に登る/登らない「点の記」がある。百聞は一見にしかずなので、写真を主にした記録とします。消去法では、確かにまだ見たことがないというのを確定するのも大事でしょう。遠く不便な所ほど見えないのは当然です。
なお、立山と剱岳の項は、肝心の剱岳に登っていませんが「剱岳点の記」の内容と対応させてあり、同書の「完全ガイド」として役立ちたいと思っています。
使える→登頂編は少ないですが、登った方による山名付きの眺望写真を転載させていただきました。登山した人には、どんな山が見えていたのかの確認に役立つと思います。散策編、遠望編も同様です。
楽しみ方→百名山の楽しみは登頂するだけではないはずです。登頂するにせよ、しないにせよ、また写真をアルバムに貼るだけでなく、自分で登ったり見たりした所を調べて記録に残すこともできるのではないでしょうか。測量技師に、「山頂だけでなく見通しの良い峠などからの三角点の撰点・造標・測量記録=点の記」があるなら、登山愛好家にも、「山頂や、見晴らしの良い場所や、車窓からの同定できた山の記録=点の記」があってもおかしくありません。(「剱岳点の記完全ガイド」を含む)
(1)登頂編(含:山頂から他の山を遠望)
#5大雪山(旭岳、ロープウエーで五合目姿見)
#10岩木山(バスで八合目)
#24那須岳(車で)
#45白馬岳(バスで猿倉登山口)
#49
立山(大汝山)1,
立山2(バスで室堂)
#59乗鞍岳(バスで頂上)
#60御嶽(バスで八合目田の原)
#61美ヶ原(車で頂上)
#62霧が峰(車で頂上)
#63蓼科山
#80北岳(バスで広河原登山口)
#83悪沢岳(車でさわら島登山口)
#84赤石岳(悪沢岳から)
#85聖岳(赤石岳から)
#87白山(バスで別当出会)
#90大台ケ原山(バスで頂上)
#97阿蘇山
#138妙義山
#185金剛山(バスで金剛登山口)
#235大山(おおやま、ケーブルで下社)
#237箱根山(神山、バスで)
#280葛城山(金剛山から)
#282比叡山(バスで頂上へ)
(2)山内散策編
#7十勝岳(十勝岳温泉)
#15鳥海山(七合目)
#18蔵王
#36男体山
#43浅間山
#48
剱岳(剣御前小屋)
剱岳点の記ガイド
#64八ヶ岳(野辺山)
#72富士山(五合目)
#74木曽駒ケ岳(宝剣岳千畳敷)
(3)遠望・近望編(低地から)
#47鹿島槍
#54槍ヶ岳
#76恵那山
#82塩見岳
#91大峰山
#92大山
(4)車窓編
#11八甲田山(東北本線)
#99開聞岳(鹿児島本線)
(5)未見
#1利尻岳
#100宮之浦岳
*番外
金華山(岐阜)
養老山
二上山(奈良)
多武の峰(奈良)
三輪山(奈良)
2 開山史
山好きの人が良く知っている「槍ヶ岳開山」や「剱岳点の記」により、奈良時代を中心に、多くの名山が、信仰のために開山されていたことが分かります。以前は「役の行者(えんのぎょうじゃ)」の方が有名でした。
#54槍ヶ岳
播隆上人(ばんりゅうしょうにん、1786年 - 1840年)は江戸時代後半の浄土宗の僧で、1828年(文政11年)槍ヶ岳の開山、1823年(文政6年)笠ヶ岳再興とされています。越中国新川郡河内村(現富山市大山地区)の出身。
ウィキペディアより。新田次郎の小説「槍ヶ岳開山」。
新田次郎氏の小説「槍ヶ岳開山」は私も読んだが、大変よく書かれてはいるが、その内容は史実と異なる事を知っておく必要がある。この小説が史実であると勘違いしている人も多く、注意が必要である。既に読まれた方、今後読まれる方に参考として、いかに「うそと真実」を書いてみます。
播隆上人は大山町河内と云う山奥の中村家に生まれ、中村家は「一向宗」の河内道場として、村人が集まり念仏を唱える場所であり、ここで15歳まで過ごした。この様に小さな山村のお寺のような家に生まれ、古老の伝えるところでは大変勉強熱心な子供で若い頃より出家し僧侶になる事を望み、生まれながらに仏門の環境にあった。
昭和38年に穂刈三寿氏が出版した「槍ヶ岳開山、播隆」を読み新田次郎氏は小説「槍ヶ岳開山」を書き、昭和43年に出版した。
弟子の書いた播隆上人の行状記によれば、16歳で和泉国(大阪)の宝泉寺の見仏上人に弟子入りし、出家修行をする。故に生涯妻を娶らず、ましてや一向一揆に参加したり、妻殺しなどした事も無い。上人の文章には深い学識と教養があり、若い頃より寺院で勉学に励んだことが明らかに伺える。笠が岳に登った折、雲表に浮かぶ槍ヶ岳の峻峰をみて、僧侶とし、登山者としてその登頂と開山の夢を抱き、飛騨の山村の人々と行った笠が岳再興とは異なった地域である、信州松本の小倉村の名主に協力を依頼し、努力の末に槍ヶ岳の初登山をし、仏像を安置し開山し目的を達したが、多くの人が登れるように、苦労してお金を集め、岩峰に鉄鎖をつける
播隆上人は葛飾の行徳村の寺で修行し「和上」と言う高い位を54才の時に得ており、人を殺した過去ある人には「和上」と言う高い位は有りえない事実である。
「新田次郎「槍ヶ岳開山」の「うそ」と真実 松浦 剛」より転載、
http://www.geocities.jp/sokayamanokai/areyakoreya21.html
#59笠ケ岳
円空が開山しという説があります。
円空(えんくう、寛永9年(1632年) - 元禄8年7月15日(1695年8月24日))は、江戸時代前期の行脚僧であり、全国に木彫りの「円空仏」とも呼ばれる独特の作風を持った仏像を残したことで知られる。美濃国(現岐阜県)の生まれ。羽島市生まれ説と郡上市美並町(旧・美並村)生まれ説の2つが提唱されている。 円空は、伊吹山太平寺で修行を積んだといわれる。 また遊行僧として全国を巡り、山岳修験道の行者であった。 大峯山で修行したことをはじめ、北海道の有珠山、飛騨の御嶽山、乗鞍岳、穂高岳などにも登拝した。
ウィキペディアより。
#87白山
泰澄(たいちょう、天武天皇11年6月11日(682年7月20日) - 神護景雲元年3月18日(767年4月20日))、後世に作られた泰澄の伝記「泰澄和尚伝」によれば、717年(養老元年)加賀国の白山にのぼり妙理大菩薩を感得した。奈良時代の修験道の僧。越前国麻生津(福井市南部)の出身。三神安角(みかみやすずみ)の次男。
ウィキペディアより。
#48剱岳
剱岳点の記に拠れば、明治40年に柴崎芳太郎の一行が登った時に山頂で錫杖の頭と剣の先が見つかっています。古い時代に山岳信仰の修験者が登頂していたことが分かります。それらは柴崎家に保管され現存していますが、時代はまだ確定していないようです。
#49立山
鎌倉期から江戸期に成立した開山縁起によれば、開山者は10世紀頃の越中国守・佐伯有若の息子有頼という少年とされている。縁起については時代によって変化があり、開山者は初期には現朝日町山崎の狩人、次に有若、最後にに子の有頼となっていった。
ウィキペディアより。
富士山
#60御嶽
木曽御嶽信仰とは、長野県の霊峰木曽御嶽を対象とする信仰である。木曽御嶽は中世から近世に至るまで修験の山として存在し、登拝は重潔斎を経た宗教者に限られていた。それが江戸時代後期になると尾張の覚明、武蔵の普寛といった行者の登拝によって軽潔斎による民衆の登拝が可能となった。それから御嶽信仰は木曽周辺だけではなく、広くその信仰圏を広げたのである。そこに大きな力を発揮したのは、御嶽を民衆に開いた行者やその弟子たちであり、そこに御嶽信仰に独特な儀礼や祈祷法を継承させることになった。そうした宗教儀礼の一つが「御座」とか「御座立て」と称される神霊を憑依させるシャーマニスティックな儀礼である。
菅原 壽清著『木曽御嶽信仰−宗教人類学的研究−』評
評者:牧野 眞一 掲載誌:宗教研究336 77-1(2003.5)より転載
http://www.iwata-shoin.co.jp/shohyo/sho331.htm
#91大峰山
深田久弥の日本百名山やそれを元にした各種一覧表では、大峰山(1,915m)とあるが、これは大峯山脈中にある近畿最高峰の「八経ヶ岳」を示している。地元では一般的に単に「大峯山」と言えば女人禁制の伝統を守っている山上ヶ岳(1,719m)を指す。全国に数多く存在する大峰山の由来の山である。深田久弥は山上ヶ岳登頂後、日を改めて大峰山脈縦走路に入り、大普賢岳、行者還岳、弥山を経て八経ヶ岳までを縦走し、この2峰を大峰山として記載している。大峯山では「峯」の文字を使用しており、これは「山久しくして平らかなり。」という意味を示している。ウィキペディアより。
役の行者(えんのぎょうじゃ)
行者さんは西暦634年に奈良県葛城山の麓、現在の御所市茅原の吉祥草寺のある場所でお生まれになり、丁度そのとき数年に一度しか咲かない吉祥草(ゆり科)の花が咲き乱れていたと伝えられています。
しかし、正式な記録としては『続日本紀』にわずかに記載されている文章により実在の人物であり、卓越した呪術者・超能力者であったことを伺い知ることができるだけです。
したがって、ほとんどが言い伝えですが、それによる生涯を簡単にご説明しますと、若い頃より葛木山一帯で修行、続いて大峯山系、箕面、生駒山系などで修行をし、最高の法力である孔雀明王の術を会得、金峯山(きんぷせん)においては蔵王権現を感得、また現在の生駒山系鬼取りでは二人の鬼(前鬼・後鬼)を退治し改心させて家来とします。
「役の行者資料館田原台」より転載www.tawaradai.com/gyoujya-s.htm
役の小角(役の行者)飛鳥〜奈良時代
山岳信仰、修験道の聖者
葛城山に住み、呪術に優れ、鬼神を自由に操ったといわれます。
姓が役公(えだちのきみ)で、名を小角(おづぬ)といいます。634年(舒明天皇6年)に大和国葛木上郡茅原の里、現在の奈良県御所市茅原(ちはら)にある「吉祥草寺」で生まれました。父は加茂役君(かものえだちのきみ)、母は渡都岐比売と云います。12歳の時に葛城山に登り木の芽をたべ瀧に打たれる修行を始めました。19歳で家を出て本格的な山嶽修行に入り、修行の邪魔をする2匹の鬼、前鬼(雄の儀学)と後鬼(雌の儀賢)を捕らえ(生駒市鬼取町という地名が残っている)弟子にしました。34歳の時に金峯山(吉野)で蔵王権現の示現(じげん)に会い、法力を感得して修験道を確立します。699年(文武天皇3年)5月24日、役行者66歳の時、伊豆の大島へ流されます。ここで空を飛ぶ術を会得し、許されたあと、701年(大宝元年)彼が68歳の時、母親を鉢に乗せて唐の国へ飛んで行ったと云いいます。
江戸時代後期に、「神変大菩薩」の贈名を賜ります。また、出家せずに仏道に励む修行者であったので、役の優婆塞(うばそく)ともいいます。
役行者の修験道は、理源大師聖宝や天台宗寺門派の開祖智証大師円珍に引き継がれ、北の吉野から大峰山に入り金峰山(山上ケ岳)を中心に活動した醍醐寺を中核とする真言系の当山派と、南の熊野から峯入りをする京都の聖護院を中核とする天台宗系の本山派とに別れます。其の外、東北の出羽三山や日光ニ荒山など、全国各地 の霊山とよばれるところで修験道の諸派が生まれました。
「役の小角(役の行者)」より転載http://bukkyo.net/jinmei/ozunu.htm
3 登れない山
登れない山として最も有名なのは、奈良県の三輪山でしょう。大神神社(おおみわじんじゃ)のご神体/神奈備山です。東アジアやオーストラリアの人々にとって、山は、登るものではなく、神の宿る処でした。
三輪山(奈良県、m)
三輪山は、縄文時代又は弥生時代から、自然物崇拝をする原始信仰の対象であったとされている。古墳時代に入ると、山麓地帯には次々と大きな古墳が作られた。そのことから、この一帯を中心にして日本列島を代表する政治的勢力、すなわちヤマト政権の初期の三輪政権(王朝)が存在したと考えられている。
太古より神宿る山とされ、三輪山そのものが神体であるとの考えから、常人は足を踏み入れることのできない、禁足の山とされ、江戸時代には幕府より厳しい政令が設けられ、神社の山札がないと入山できなかった。
明治以降はこの伝統に基づき、「入山者の心得」なるものが定められ、現在においてはこの規則を遵守すれば誰でも入山できるようになった。登山を希望する場合は、大神神社から北北東250m辺りに位置する境内の摂社・狭井神社の社務所で許可を得なければならない。そこで氏名を記入し300円を納める。そして参拝証の白いたすきを受け取り御祓いを済ませる。道中このたすきを外すことは禁止されている。行程は上り下り約4kmで、通例2時間ほどで下山できるが、3時間以内に下山しなければならないという規則が定められている。また山中では、飲食、喫煙、写真撮影の一切が禁止されている。午後4時までに下山しないといけないため、午後2時以降は入山が許可されない場合がある。
ウィィキペディアより転載
2009年11月に近くの纏向遺跡で、3世紀半ばとされる宮殿と思われる大型建物を含む4つの遺稿が東西に一列に並んでいることが発掘・発見され、邪馬台国の中心地ではないかと注目されました。東西の軸線は三輪山を向いています。
#48剱岳(富山県、2999m)
剱岳点の記」によって、剱岳が立山信仰において、地獄の山として登山を禁じられていたことが、改めて広く知られるようになりました。
あとがき
20101.25 第二部を分離